WORLD MASTERPIECES ATLAS
1907年、ウィーン。クリムトが展示中のキャンバスに筆を入れていたとき、オーストリア政府の役人が現れ、完成も待たずに25,000クローネを置いていった(通説)。国家がこれほど即断した名画は珍しい。
「猥褻だ」という批判の声はあった。抱き合う男女、露わな首筋、金箔の花びらの下に溶けていく二つの体。帝政末期のウィーンで、その官能性は一部の目には危険に映った。しかし「国宝だ」という声がそれを上回った。批判と賞賛が同時に爆発した瞬間、この絵の運命が決まった。
以来、『接吻』はベルヴェデーレ宮殿美術館の壁を離れたことがない。オーストリアは法律でこの絵の国外持ち出しを禁じ、値段もつけていない。値段のつけられないものが、本当の意味で国宝になる——その逆説を、この絵は体現している。
クリムトがこの絵を描いたのは、ウィーン分離派(セセッション)設立から10年後の頂点期だ。1897年、クリムトは保守的なウィーン芸術家協会に反旗を翻し、若い芸術家たちと「分離派」を結成した。モットーは「時代には芸術を、芸術には自由を」。帝国のアカデミーに挑んだ宣言から、10年でこの絵が生まれた。
『接吻』は「黄金様式(ゴールデン・スタイル)」の代表作だ。金泥と金箔を多用した装飾的な様式で、クリムトが1900年代前半に集中的に取り組んだ。男性の外套は幾何学模様、女性のドレスは花と曲線——ジェンダーの対比が金の中に埋め込まれている。二人を包む正方形180×180cmのカンヴァスは、それ自体が一つの宇宙だ。
「時代には芸術を、芸術には自由を」——ウィーン分離派(セセッション)のモットー、1897年
絵全体が金に包まれているが、二人の顔と手だけは自然な肌色のままだ。金は二人を世界から切り離すが、肌は二人を人間として残す。そのコントラストが、この絵を装飾画ではなく人間の絵にしている。
グスタフ・クリムトは1862年、ウィーン郊外に生まれた。父は彫金師だった。10代で工芸学校に入り、天井画や劇場装飾の仕事で頭角を現した。ウィーン大学の天井画(のちに焼失)は「エロティックすぎる」と論争になり、注文料を返金して自分で引き取ったほど妥協しなかった。
生涯独身を貫きながら、長年の芸術的パートナーはエミーリエ・フレーゲ(ファッションデザイナー)だった。『接吻』のモデルが彼女だという説は根強いが、クリムト自身は生涯その答えを語らなかった。モデルについては「名もなきモデル女性説」も含め、諸説が今も論争中だ。
クリムトは1918年1月、55歳で脳梗塞により死去した。その年の秋にはスペイン風邪が世界を席巻し、愛弟子シーレも28歳で逝った。世紀末ウィーンの黄金期は、第一次世界大戦と疫病によって一気に幕を閉じた。クリムトが答えを持っていったモデルの謎は、金箔の花びらの下に永遠に眠っている。
『接吻』は現在、ベルヴェデーレ宮殿美術館(ウィーン)に展示されている。オーストリア政府が1908年に購入して以来、一度も別の場所に移ったことがない。国外持ち出しは法律で禁じられており、他館への貸し出しも行われていない。つまり、ウィーンに行かなければ本物に会えない。
正方形180×180cmの実物の前に立つと、絵は人間の体と同じスケールで迫ってくる。複製印刷では伝わらない金箔の立体感と光の揺らぎがある。美術館の照明が当たるたびに金が異なる顔を見せ、同じ角度から見ても昼と夕方とで表情が変わるという体験は、本物の前でしか得られない。
百年を超えてもモデルは謎のまま、評価の逆転(猥褻→国宝)もそのまま、国外に出たことも一度もない——それだけの制約を持ちながら、この絵は世界で最も知名度の高い絵画の一つであり続けている。縛られているものが、最も強い光を放つこともある。
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